今日は雨だったのでなんかしみじみこの最近の世の中の乱れについて考えてしまった。たまには硬いのもいいかな・・・

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私は38歳。
田舎育ちで昔から近くに神社も、お寺も、墓場もあったところで育った。
しかも母方の親戚は寺が3軒ある。

子供の頃こんなことを親にいわれたことはなかっただろうか
「嘘つくと閻魔さんに舌抜かれるよ」とか「動物をいじめたり、殺したりするとそれが化けて出てくるよ」なんて。
私のように身近に宗教の現場にいる人間がいなくとも、このくらいは言われて育ったのではあるまいか。

目に見えないものへの恐怖や人の力の及ばないことへの畏怖感と言うものは子供の頃の強烈なイメージとして、植えつけられてきてはいまいか。

現代社会は、化学や医療の進歩はたまたゲームやテレビの影響で、目に見えぬ力への理解が深まり、目に見えぬものへの恐怖というものが薄れた。
そして、人の力の及ばぬものがあまりにも少なくなりすぎた。

情報は目に見えぬ恐怖を、科学とそれを伝える言語で表し、明確化し、恐怖を恐怖として認識しなくともすむようにした。
そして実体験をせずともリアルな体験ができる。それを楽しむための道具も発達した。

実際の戦争は永久に日本人には無縁のものとなり、死は寿命と病気と事故にだけ左右される安穏としたものに代わった。

飢餓から来る死や、他から生命の危機を感じることのなくなった今。リアルな死を身近に感ずることなど皆無といっていいこの日本では、死をバーチャルの世界でしか体験できなくなった。

恐怖は画面の中にある一時的なバーチャルの世界の出来事。実際の恐怖は科学や情報の進歩により克服され、人の寿命は延び、身近に死の恐怖は存在しない日本。

語り部はいない。
宗教はまるでいんちきのような扱いを受け、道徳教育の時間は削減され、老いた者への接触は異常に少なくなった今、どうやって本物の死を感じ取ることができるのであろう。

死の観念があってこそ、生きるという価値観が生まれる。

死を疎ましいもののように遠ざけるのは現代道徳教育の間違いだ。

道徳=宗教
宗教はみなに平等に訪れる死という生命活動の一現象を明らかに表すことにより、この世に生まれた自分の役割を、なすべきことを、また人間として生まれた喜びを、生命の終わりが来るまで全うし、幸せになるため、人々が協力し合う理想の姿を説いていく道徳教育の根本なのだ。

変な新興宗教のせいかなんかは知らないが、宗教は疎ましがられる存在ではない筈だった。

たった50年前までは・・・

化学や情報や医療の発達はよいことだが、宗教や、精神論や、道徳心までも非科学的なことと削減、排除してきたことへのツケが今、このような社会を作り出しているとは言えないだろうか・・

このようなことを書いて、どこかの宗教信者のように勧誘とかだと思っては困る。
そういう趣味はない!

しかしこの今の現状を大いにうれいているのは何も私一人ではないのではないか?
皆恐れているのではないか?
この日本の未来を・・・そして自分の身の危険を!!

もう遅いかもしれない。

今事件を起こし始めている世代はバブルの申し子世代。
三つ子の魂を育てる時期に、世の中が狂っていたのだ。

もう遅いかもしれない。

でも今恐れている人間が行動を起こさねばエスカレートする。
日本人はそういう民族だ。

本当の道徳心を持った世代が教え、伝えねばいけない危機が今訪れたのだ!



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